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北方領土問題--千島列島はなぜロシア領か - Ne www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm 北方領土問題. 3.千島列島のロシア領有(北方領土問題の歴史・経緯) 3.1 千島列島はなぜロシア領か ここでは、千島列島がなぜロシアの施政下にあるのか、説明します


 ここでは、千島列島がなぜロシアの施政下にあるのか、説明します。
 第2次世界大戦末期、ヤルタ会談で米国大統領ルーズベルトはソ連に対して対日参戦を求めます。このとき、ドイツ降伏3ヵ月後に、ソ連は対日参戦すること、樺太・千島はソ連領となることが合意されました。(正しくは、カイロ会談に先立つモスクワでの外相会談の席上で、ソ連の対日参戦が求められています。)
 1945年8月9日、ドイツ降伏のちょうど3ヵ月後、ソ連は対日参戦し、当時、日本が実質支配していた中国東北部(満州国)に進攻し、8月11日には当時日本領だった南サハリンに進攻します。さらに18日には千島列島に進攻開始します。
 日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し、9月2日降伏文書に調印しています。ポツダム宣言八条にしたがって、日本の領土は、四つの主要な島(北海道、本州、九州及び四国)及び連合国が定めた諸小島に限定されました。降伏文書調印と同日に出された一般命令第一号により、千島諸島に在る日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏することが求められています。すなわち、ポツダム宣言第七条、一般命令一項(ロ)により、千島はソ連の占領下になりました。
 実際にソ連が北方4島を占領するのは、8月28日から9月5日です。

 1946年1月29日、GHQは日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)を出します。この指令で、クリル(千島)列島、歯舞、色丹は日本の行政範囲から正式に省かれます。なお、このとき竹島も日本の行政範囲から省かれています。正式にはこのとき以降、日本の施政権は北方領土や竹島に及ばない事になり、現在にいたっています。
 1951年、サンフランシスコ条約を批准します。条約第2条C項は次のようになっており、日本国は世界に向けて、千島の放棄を約束しました。
『日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。』
 日本が放棄した千島とはどこか、条約には明確な記述はありませんが、同年10月の衆議院で、西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれるとの答弁を行っており、国内外に向けて、国後・択捉島の放棄が明確に宣言されました。(注意:歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に含まれないというのが当時の日本政府の説明です。)(注1、注2)

 サンフランシスコ条約で日本が放棄した樺太の一部は、「ポーツマス条約の結果として主権を獲得した」との条件がついています。これに対して、千島は無条件で放棄する事が定められています。千島を日本が領有する事になったのは、戦争の結果奪い取ったところではないためです。

 サンフランシスコ条約では、日本が放棄した千島とはどこか、若干の解釈の違いがあった事が知られています。 
 ソ連代表グロムイコは「樺太南部、並びに現在ソ連の主権かにある千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地のないところ」であるとの発言をしています。
 アメリカ代表は演説の中で、「千島列島という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。
 日本代表の吉田茂は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」との表現で、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる表現を使っていますが、国後・択捉については「千島南部の二島」の表現をしています。
 これらのことから、サンフランシスコ条約では、国後・択捉は日本が放棄した千島列島に含まれるという事で一致していたわけですが、歯舞・色丹については、意見の一致をみなかったという事がわかります。
posted by Mark at 23:06| Comment(0) | 北方領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする